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『努力』って言葉に抵抗感はありませんか?

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『努力』って言葉に抵抗感はありませんか?

『努力』という言葉に何か抵抗感を抱いてしまうことがあります。

この言葉は不思議で、陶酔する人もいれば、反対に嫌悪感を覚える人もいる。

それで言うと私は、努力は大切だと思うけれど、
この言葉をすんなりと受け入れる気持ちにはなかなかなれません。

では、一体この気持ちは何なのか?

なぜ『努力』という言葉に抵抗感があるのか?

この点について、今回は考えてみました^^

『努力』という言葉に対するイメージを整理しよう

誰かに「努力したね」と言われて、嬉しくなるかイラっと来るかを考えた時、
私はどっちの気分にもなった経験があります。

認めてもらえた嬉しさを感じることもあれば、イラっとまではしなくても
「別に大したことないけど…」と思うこともある。

言葉は同じなのに受け取る時の気持ちが違う。

この理由は、私は『努力』という言葉を
決して軽い言葉として受け取っていないからだと思います。

それは過去に自分が努力したと思える経験があるから。

自分の経験から『努力は大事』という認識をしていました。

逆に、私は『努力』という言葉を自分が思っている以上に
重く捉えているのかもしれません。

そこで「自分がどんな時に努力したと感じたのか?」を整理してみました。

すると、自分が努力したと感じる状況は
2つのパターンがあることがわかりました。

『目的』のために努力をしたパターン

何か目標を成し遂げたいとき、その過程で
『自分がやりたくないこと』をしなければならないことがあります。

私の例を簡単に挙げると大学受験。

「大学生にはなりたいけれど、勉強はしたくない」

そんな経験があります。笑

国語や英語が苦手で、とにかく勉強が苦痛。。。

けれども、合格するためには必須科目だったので、
面倒で嫌でも必死に勉強しました。

この経験は自分で努力したと感じられるものです。

『大学生になるという目標のために、やりたくない勉強をした』

望んだ結果を得るために、
「嫌なことをする」ことが努力の一つの側面だと私は感じています。

『責任』のために努力が必要なパターン

努力は嫌いなことだけに使う言葉なのか?

考えてみると、そんなことはありませんでした。

学生時代、私はサッカー部に所属していましたが、
部活動を通して自分は努力したと感じています。

けれども、私はサッカーが好きで嫌いになったことはないです。

では、なぜ努力したと思えるのか?

それは『一緒に練習してきた仲間がいた』から。

サッカーはチームスポーツなので、自分が手を抜くと試合に勝てないし、
周りに迷惑をかけることになります。

つまり、そこには責任が生じるのですね。

『仲間のために、責任を持って練習をした』

望んだ結果を得るために、
「自分の行動に責任を持つ」ことも努力の一つの側面と私は感じています。

『努力』には「厭い」と「責任」が伴う

「嫌いなことに取り組まないといけない」

「責任を持たないといけない」

私が『努力』という言葉に抵抗感を覚えるのは、
この「厭い」と「責任」という感情を抱くからでした。

自ら嫌な事に立ち向かったり、自分以外の物事も受け止めたりする。

『努力』は文字通り『力が必要な言葉』で、
その努力に見合うためには『同じだけの力を出す必要』がある。

もしかすると、抵抗感を抱くのは必然なのかもしれませんね。

『努力』は大切なこと。

けれども、もっと大切なのは『努力』という言葉を
「自分はどう受け止めているのか?」ではないかと思います。

言葉自体に良い悪いが存在しないとすれば、
自分がその言葉をどう解釈しているかの比重は大きいように感じます。

言葉に対して自分がどんなイメージを持っているかを明確にしておくと、
「なんとなく良い」や「何となく嫌い」とかではなく、具体的な解決策が見えてくる。

それで言うと、今の私は努力と思って我慢するよりも、
努力と思わないように工夫をする方が性に合っている気がします。

好きになれる部分を探したり、失敗しても面白がれる自分でいたり。

私は『努力』に対する基準を、
もっと楽しいモノに寄せてもいいのかもしれませんね^^

少なくとも変に嫌悪感を抱くことはないでしょう。

なんとなく嫌だと感じることも、言語化して自分が納得できれば、
抵抗感もなくなっていくもの。

改めて『感覚を言葉にする』ことの重要性を感じた気がします。

マナビエルライター&ファシリテーター
松田 裕司

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