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『自分の表現の価値』を決めるのは誰?

あらわす

『自分の表現の価値』を決めるのは誰?

自分の表現は自分のもの。

だから、自分だけが納得すればそれでいいし、価値だって自分が決めれば良い。

本当だろうか?

私はたとえ自分がした表現であっても
「その価値は自分だけで決めるものでもない」と思っています。

それは『表現は必ずしも自己完結するものではない』と考えているから。

表現を受け取る人がいて初めて成り立つ事があるならば、

「想いや意見は自分だけが納得すればそれでいいのか?」
「価値は自分だけで決めて良いのか?」

については考える余地があるのかもしれない。

今回は『自分の表現の価値』について考えてみました^^

“表現力”は曖昧な表現

私は花粉症がひどく、今の時期はとにかく集中できません。

いつも何かしらの対策を探しています。

ある時、何気なく『集中力を高める方法』を調べたのですが、
ふと「そもそも“集中力”って何だ?」と思ったのですね。

『集中する力、一つの物事を熱心に取り組む力』などが集中力の意味ですが、
私は「“集中力”って曖昧な表現だなー」ということが気になりました。

例えば、ゲームでは攻撃力や防御力など数値化されるけれど、
人間の能力は基本的に数値化できないもの。

「私の集中力は80です」と言ったところで、
それがすごいのかどうかは他人には分からない。

だから「集中力を高めるってなんだか曖昧なものだな」と考えるようになりました。

そんなことを考えていると
「“自分の表現力”って自分が思っているほど尊いものじゃないのかも?」
とも思うようになりました。

それは“表現力”も“集中力”と同じようにすごく曖昧なものだから。

曖昧な理由は明確な基準がないからでしょう。

「じゃあ、『表現』に対して強引に基準を設けたら価値がわかるかも?」

と興味を持ったので、『表現の基準』を探してみることにしました。

基準を示すためには『定義』が必要

数字では表せず基準がないと思っているものも、
『定義』を決めてしまえば意外と簡単に示せてしまうもの。

例えば、人生の価値。

仮に『友達が多ければ多いほど人生には価値がある』と『定義』すれば、
「友達が多い人の人生には価値があり、友達が少ない人の人生には価値がない」と言える。

…この『定義』で言うと、私の人生の価値はかなり低いですね。笑

けれども、私は自分の人生に価値がないとは思っていません。

それは『人生の価値は友達の数では決まらない』と考えているから。

こんな風に考えるのは私だけではないだろうし、
逆に「友達は多い方が人生は楽しいよ」と考える人もいるでしょう。

どちらも正しいと言えるはずです。

ここで分かるのは「基準を設けるには『定義』が必要だけど、
人によって定義が違うと絶対的な答えはない」ということ。

なので、『定義』によって『表現の基準』を示すことは出来ないとわかりました。

その代わり、私がどんな疑問を抱いているかは見えてきました。

私は

「『表現』は人によって定義が違い、絶対的な答えがないものなのに、
『自分の表現の価値』を自分勝手に決めていいものなのか?」

と、こんな疑問を抱いていたのですね。

もちろん『自分の表現の価値』を自分で決めてもいいのでしょう。

ただ、言葉や想いを伝えるのは相手がいてこそだから、
受け手の気持ちを無視することは出来ない。

だから私は他の可能性を探した方が良いと感じています。

そこで、今度は『定義』とは別の方法、
「『比較』によって『自分の表現の価値』に近づけないか?」
についても考えてみました。


『比較』によって基準を見つけることは出来る

友達を例に考えてみましょう。

一言で友達と言っても、そこには距離感の違いがあります。

週に1度は会う友達AやBもいれば、
1年間会っていない友達CやDもいる。

4人とも自分にとって友達だけど、
会う回数を『比較』をすることで基準は生まれます。

もちろん友達は比べるものではありません。

ただ強引に『比較』すれば、仲の良い友達と
そうではない友達のように基準は生まれてしまうもの。

こう考えると、『表現』は『定義』によって
基準を示すことは出来ないけれど、
『比較』によって基準を設けることは出来るのがわかります。

例えば、お笑いコンテスト。

審査員がネタを採点して、順位を付けることが出来ます。

人によって面白いの『定義』は違うけれど、
他のコンビと『比較』することで
明確ではないけれど基準は生まれるのですね。

私が「言葉や想いを伝えるのは相手がいてこそ」と感じていたのは、
『他人との関係性の中でしか生まれない基準もある』ということを
感覚的にわかっていたからなのでしょう。

そして、その感覚は言語化することが可能であり、
考えることで「『自分の表現の価値』を決めるのは誰なのか?」
の答えも見えてきた気がします。

『自分の表現の価値』を決めるのは自分だけではない

「自分と周りの人を比べるものではない」と言われるし、私もそう思います。

けれども、だからと言って他人をないがしろにしてはいけない。

なぜなら他人と『比較』して
初めて基準が生まれることも事実としてあるから。

『比較』すると優劣は生まれるかもしれないが、
『比較』しないと差異は分からない。

自分と他人との違いを知らないと、
自分の表現で無意味に誰かを傷つけてしまう可能性も出てくる。

だから、自分が思ったことをそのまま伝えることは、
表現としては間違ってはいないけれど、
絶対に正しいとも言えないでしょう。

正直『どこからがアウトな表現か?』は難しいけれど、
差別に当たる言葉は言ってはいけない、
故意に人を傷つける言葉で
自分の気持ちを表現してはいけないことは共通認識だと思いたいですね。

表現の基準は曖昧なので、
他人と『比較』して違いを感じなければ、
『表現の答え』や『表現の価値』は見えてこない。

他人との『比較』で優劣が生まれることは不安かもしれないけれど、
優劣は自分なりの『定義』で意外とどうにでもなるもの。

私は一般的な人と『比較』すると友達が少ないけれど、
「友達の数で人生の価値が決まると思っていない」
という『定義』があるので、
友達の多い少ないに関しては何も思いません。

もし、人と違って不安に感じているなら、
「自分はどう思っているのか?」を整理することで安心できます。

周りと『比較』することを避けず、違いを認識する。

自分の想いと他人の想いに違いがあるから『基準』は生まれる。

これらを理解すれば『自分の表現』に気を付けようと思えるし、
受け手が『自分の表現』に別の新しい価値を
与えてくれる可能性も生まれてくる。

自分の思い通りに事が進むよりも
自分が想像しなかったことが起きた方が私は楽しいです。

だから『自分の表現の価値』を自分だけで決めるのはもったいない。

受け手が「こう考えたらもっと面白くなりそう!」と
余白を楽しめるように自分の想いを表現したいものですね。

文マナビエル文章サポート担当 
松田 裕司

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